ベッドの歴史 2

日本のベッドの歴史 2
<戦後のベッドの庶民への拡大 2>


現在のベッドの普及の道程

昭和30年から40年のフランスベッドの販売戦略

フランスベッドが行ってきた販売に基づくポイントがあります、これは現在の新興国への各日本のメーカーの販売戦略とよく似ております。

1. 売れる市場を探して、販売チャネルを常に変えてきている。
デパート、呉服店、寝具店、家具店、また問屋、代理店、経由から、
メーカー営業所の直卸方式により限りなくユーザーに近づいていった、。当時のフランスベッドさんの営業マンは
「限りなくユーザーに近づくが、密着しては駄目だ、密着するのは小売店であり、我々は、販売店に密着するのです。」
これでは、当時の販売店はフランスベッドに追従して行ったわけが解ります。

2. 市場を常に創ってきた。
説明と販売を行う部隊を創り、ユーザー教育を行ってきた、TVはその一環であります。
ユーザーにベッドの理屈から使い方まで、メーカー営業マンが店頭で、販売店に売りながら教えていった。この為、販売店の知識、
技能はフランスベッドが標準となりました。現在に至っても、いろいろのベッドメーカーの基本的な販売方法、話術、
スプリング構造等のベース技術はこの当時の技術の延長で有る場合が多い場合があります。

3. 直接販売と間接販売の変化 

初期の頃は市場開発と啓蒙活動を行う、直販を重点に戦略を展開して、一定の市場が出来てきてから、商品展示を中心にした、
間接販売(メーカー卸)にシフトして量販体制に移行してきました。

このように市場を創り、拡大出来た、最大の要素は、徹底した社員教育システムにありました。NHKの「現代の映像」に
フランスベッドの独立先行隊と言われる組織を作り、社員教育と得意先教育を行ってきました。その為、フランスベッド以外の
メーカーがこのベッドの市場に参入するのは大変でした。
  むしろ、戦後日本のメーカーの販売戦略を現在日本のメーカーはそのまま新興国開拓に再度使っているように思われます。
「成長市場では先発の優位が動かない」販売戦略の本に書かれるように、先発の優位を利用してフランスベッドが、家具店での店内シェアー
おおよそ15%をとっておりました。しかし、ベッドはあくまでニッチな市場であり、フランスベッドの損益計算書を見ると、
ベッド関係で300億円を超えておりません。もちろんその他のメーカーは合わせても100億円位しか有りませんでした。


フランスベッドの販売チャネル別商品の販売

昭和40年頃からフランスベッドは販売店の組織化を始め、最初は双葉会と言う販売店組織を作り上げ、家具店が大型化してから、
3つの販売形態別組織を作り上げました、大型家具店 みのる会、家具店一般 双葉会 寝具店とインテリア店 わかば会の
3チェーン店会を基礎の販売を組織化しました。また各チェーン会の専用のベッドを作り差別化を行い、モダンベッドファーストベッド
ハニーランドベッドこれが高度成長期と重なり、協力な販売組織となりました。しかしこれは、多品種少量生産になりやすく、
フランスベッドの最大の問題点となりました。

所得の変化とマットの堅さの変化

<日本人の寝姿勢の変化>
初期のころのマットの堅さはメーカーの作ったもの(アメリカの影響を受けて比較的ソフトな感触のマット、代表的なのはダブルクッションタイプ)) しか選択支がありませんでしたが、アメリカのスプリングメーカーのレゲット社と提携して作った、スプリングシステムのZ-HIスプリングシステムは
その展開において、堅さの選択を「堅い、普通、ソフト」のなかから選べるようにしておりました、体型に応じてマットが選べるシステムでした。
この商品はアルファーモーニングシリーズ「ハードプロ」マットレスシリーズとしてヒットし
現在の「ライフトリートメント」マットレスシリーズとして堅さの選択が出来るシリーズとして継続しています。

戦後、ベッドの販売を行ってきた人の感覚では、最初(昭和40年から50年頃まで)はソフト(ふわふわに夢があった)それから堅めの健康志向、昭和50年から60年頃まで)
バブル(平成元年から5年頃まで)が崩壊してきてから再びソフト(平成10年から20年頃まで)高級品を中心に)に変化してきております。

ベッドの堅さと寝姿勢の変化


戦後 日本人の寝姿勢は団塊の世代を中心に上向きねが圧倒的に多い状況でした、しかし団塊世代の子息の寝姿勢は横向きね(赤子の寝姿勢)が増えてきて
かれらが、ベッドの購買の中心になり出した平成10年頃から、横向きに対応したソフトマットが売れ始め、高級品を中心に現在、ソフトタイプが主流と成ってきております。
バブル以降、ベッド購買の中心は団塊ジュニアとなり、彼らが住宅を購入する時期と重なりソフト志向のマットがうれております。

男性は団塊の世代は、圧倒的に上向き寝が多いのですが、女性は横向き寝が多いのは当然ですが新しい20〜30代に男性でも横向き寝が増え始めております。
横向き寝は60代では5割弱 50代では5割前後、40代は5割強、30代では5割強、20代では5割以上、未成年では横向寝は
5割5分位です。若い人ほど、横向き寝が増えているとでております。

寝姿勢とは

ひとは自分にとって、寝付きやすい姿勢が、その人に取っての、寝姿勢です。
人は一日に何回も寝返りを打ちます、20回から30回もうつ人もいます。ですから寝付きの姿勢を云々しても始まりません。
でも寝付きやすい、ベッドを買うのも現実です。つまり、寝付きやすい事が、お客さんの重要なポイントです。
現在のお客にとって、重要なのは、いかに寝付けるか!であります。

特に現代の女性には、週刊誌などにも書いて、いますが「寝ている時間は多いのですが、熟睡出来ていない」 人が多いのです。

つまり、寝姿勢とは、お客さんの言う、寝姿勢とは、深夜、寝ている姿勢ではなく
寝始めに熟睡に至りやすい、寝の姿勢のことです。

食生活の変化は体型と寝姿勢に変化をもたらしたのでしょうか!


戦後の食生活は成長期の子供の体型に大きな変化をもたらしました、身長など身体が大きくなってきました、しかし伸びたのは下半身で、上半身の変化は少なく
欧米人に近いスタイルの良い体型に変化してきました、これはまた寝姿勢も欧米人のように、横向き寝(身体を丸めて寝る姿勢)が増えることになり
その結果、マットはソフトな感触が好まれるように成ってきました。

現在のベッド市場を見てみるとこのことがよく分かります、国内販売数量の半分を占める輸入品(販売価格5万円以下)はマットが堅めで国内販売の半分の国産品(販売価格5万円以上)
は比較的マットはソフト傾向があります。
中国などの途上国ではまだ30年前の日本人の体型が主流ですので、当時のマットの堅さが好まれ、必然的に輸入品も堅めが多くなり、
必然的に子供向けに廉価ベッドは堅め中心となります。逆に婚礼、新築が中心の大人向けは、柔らかめが中心のマットの構成と成ります。

フランスベッドの教育システム

「販売は教育の上に成り立つ」

 当時のフランスベッドには徹底した教育システムがありました。フランスベッドには教育課があり
 集合教育を行い、 初期に三重の芸濃学園に新入社員を集めて、軍隊式に販売・研修の部隊を創り名称を独立先行隊から
 協力隊組織(昭和37年頃から始まり、新入社員教育を含め最盛期は1年間の教育の実施)としてまた
 得意先を集めての集合教育を行いました。
この当時、体系的な睡眠教育が出来る、組織、メーカーはフランスベッド以外にはありませんでした。
その為、すべてのベッドの販売に携わるものは、フランスベッドを取り扱わざるを得ませんでした。
現在もこの業界関係者には元フランスベッドの社員が多くいます。

昭和50年頃の一部の地域の営業所・営業課では、当時流行の「ランチェスター販売戦略」などの研修や、
アメリカからの輸入の映写機を使った得意先、社員研修が行われていました。

ベッドの普及率

ベッドはこの昭和の時代、平均で120万台/年くらいで販売されてきており、人口の1%が購入すると言われておりました。
当時のフランスベッドの営業マンが販売店に言っておりました。「御社の商圏人口は何人ですか、
その1%がこの1年でベッドを購入します、御社は何台昨年販売されましたか?そのシェアーはいくらですか?」

当時から現在まで、おおよそベッドの販売台数(全国)はなぜか住宅着工戸数と同じでした、住宅着工が120万戸あれば、おおよそ
120万台(全国)でした、バブル期180万戸の時は、180万台の販売台数でした。これは、理由は不明ですが、現実です。

この当時の普及率は世帯単位で計算されていました、現在の様にベッドは個人で使うものの意識は少なく、ベッドの有る家は
ナンパーセントと言うような感じです。世帯の普及率が50%を超えだしたころ(平成以降)から人口単位の普及率が言われ出しました。
現在でも個人普及率は1/3を超えたくらいです。


フランスベッドのチャレンジ

キャンピングカーへの進出  昭和46年には中部フランスベッドで本格的なキャンピングカー(キャラベルエアーDシリーズ)を作り生産・販売を行っていました、しかし時期が早すぎて
市場が未成熟でこの進出は終わりました。

樹脂チェアーへの進出と人工大理石の生産販売への進出
樹脂チェアーはネオウッドの名称で昭和44年、最初はダイニングセットとして販売されましたが、生産技術が残念ながら未成熟で、、生産をシステムキッチンの
モルデッドマーブル(人工大理石)の生産販売(昭和50年)へシフトしてシステムキッチンの販売にチャレンジしましたが、共に、未成熟のまま、終了しました、
時代に先駆けて新しい商品開発にチャレンジする気概はすばらしいものがあり、しかし共に時代に早すぎました。

健康産業への進出 

ツボヘルサー発売

昭和55年、全身ローラータイプで破格の価格の健康商品の発売
当時100万位した、健康ローラータイプのマッサージ器を価格、わずか10万少しで発売、大変売れました。これが健康市場へに最初のチャレンジでした。
このツボヘルサーという商品は当時としては、画期的な商品で、他社のローラータイプを駆逐して現在に至るも、これに勝る商品は出てきておりません。 この時、家具店という販売チャネルを使い、健康業界以外からの販売で、市場にインパクトを与えました。
ちょうど、羽毛の訪問販売がピークを過ぎてきた折、この商品は販売店側の要望でも有りました。
しかし、その機能のすばらさと30kgの重量は販売に持ち運び憎いものでした、これを克服するのは昭和59年発売
楽寝を待たなければなりません、楽寝の発売と同じくフィールドボーイという、車用のワンタッチテントも発売しています。
楽寝の特徴は持ち運びが簡単な為、当時盛んでした、外販活動に最適で、この商品のバリエーションは現在まで、売れ続けております。


<ユーザーへの強力なアプローチ方法>

当時のフランスベッドの最も得意な販促方法は、全国網の営業所から各販売店(家具店・寝具店等)に対して、ユーザーへの販促企画を行うことでした、
訪問販売誘店活動、単独展示会、合同展示会等、お客の家に訪問配売で同行する、のちには、お客様を会場に案内する販売方法など、
商品情報を懇切丁寧に行うのが、お客様の信頼を得て、全国に広がっていきました。

そのなかで、合同展示会方式は現在まで行われている企画です。


羽毛市場の開拓につづく

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