ベッドと羽毛の歴史 3

フランスベッドの羽毛布団の歴史


<戦後の羽毛布団の庶民への拡大>

羽毛布団の普及の歴史


フランスベッドによる羽毛市場の開拓



おりしも昭和49年のオイルショックで、前年までのバブル景気から一転、ものが売れなくなり、フランスベッドも苦境に立たされます。
この時、関連会社が扱っていた、羽毛布団に脚光をあて、拡販をはじめたのが、大ヒットとなり、年商350億企業を550億企業に拡大させました。
この時代(昭和50年頃)はまだ羽毛布団は市場に無く、一般ユーザーにはなじみの無いものでしたが、
昭和40年から始まった協力隊の徹底した社員教育をした営業所の社員が家具店、量販店などに同行外販を仕掛けていきました、
(昭和55年から65年頃)この訪問販売はベッドの最適な寝具は羽毛であるという、知識をユーザーに教えました。寝具で有名なメーカーの西川が
量販店での低価格戦略で市場のトップを握るのには、まだ10年掛かりました。この時代の羽毛布団はダウン率が平均70%ぐらいで、
品質的にはまだまだにものでしたが、市場に無いものを販売する意気込みで、フランスベッドは展開を進めておりました。
この当時はまだ、販売する商品は、フランスベッドの子会社の日本衛生寝具(ネスコ NESCO)と言うところで作り、販売しておりました。
のちにこの羽毛の生産分野は昭和58年からフランスベッドのメーカーに吸収され現在の静岡羽毛工場にて数少ない国産羽毛一環生産工場として稼働しております。

現在 国内で羽毛の精製・縫製・充填、そして販売を行っているメーカーはほんのわずかで、フランスベッドはその数少ないメーカーの1つです。


羽毛布団の黎明期



羽毛布団の販売は最初は羽毛布団が売れたのではなく、訪問販売の商材として訪問販売の手法と一緒に市場に登場させました。
この手法は、三重県の営業所から始まり、燎原の火のごとく、日本国中に広がりました。

昭和49年、本格的な1本ベッドが市場に出て、そこにベッド用寝装品の1つの羽毛布団チェルビン3種類がありました(昭和49年カタログ)です、しかしこの商品
は販売方法が確率されてなく、現実には売れませんでした、。まだ当時は羽毛のダウン率によって羽根布団と羽毛布団を分けるということすら
ありませんでした。ただチェルビンDXは当時の表示でダウン75%でしたので、現在のダウン率では60%前後と思われますが、現在でも使われている
ことから、羽毛布団の耐久性に高さが解ります。

※ 業界基準では羽毛布団はダウン率50%以上、羽根布団はダウン率50%以下でスモールフェザー50%以上を示します。

羽毛布団は、当時の人には、知らない商品で、どのような効果があるのか、ほとんど知らないのが現状でした。イメージは高い、軽い、贅沢品でした。
その為、この商品を販売するためにフランスベッドがとった方法は、メーカーの社員が販売店の社員と販売店の顧客の元に、同行して説明を行い、
販売店が売るという方法でした。
この外販活動は、家具店、寝具店、量販店でも行われました。

<昭和50年代の羽毛商品の特徴>



この時代は 商品自体が始めてお客様が見るものでしたので、羽毛の生地の上に絵羽柄の生地をいっしょに縫い付けたタイプがほとんどでした。
現在の様な無地でカバーリングは皆無に近かったです。それは当時布団には紗付包布は標準でしたので、ゴースのカバーから柄が見えることが、
必要だったからです。そのため商品には必ず紗付包布が付属しておりました。価格は平均10万円から15万円で販売されておりました。
現在の基準ではダウン率60%位ですが、当時の規格では70%位でした。当時はアメリカ規格、(FTC規格)と西ドイツ規格(RAL規格)
の2つがあり規格が統一されていませんでした。その為、アメリカ規格では誤差30%が認められていましたのでダウン90%の表示では63%で
90%の表示が出来ていました。これに対してRAL規格では5%しか認められてませんので、85%以上のダウン率がないと認めることが出来ません。
その為FTC規格は廃止され現在は国際規格に変わってきています。
こに時代に原毛は上海交易会を通じて、中国から輸入されていました、これは羽毛の品質向上の為、東ヨーロッパへと変わっていきました。

<昭和60年代の羽毛商品の特徴>



羽毛布団の普及率が3%から5%頃からするとこのころは10%近くなり、高品質羽毛が求められてきました。
その為ダウン率競争が始まり、また目の前で精製羽毛の充填販売が始まりました。この当時の羽毛の販売は高度経済成長もあり、10万から20万円近くなり、
高額羽毛が良く売れました。こに時代にキルト方式もつぶし縫いから立体縦マチキルトが多くなり、よりふくらみが増すようになりました。
この時代、高品質羽毛をポーランド、ハンガリーに求め、ポーランドはアメニックス公団から直接輸入を行っておりました。

<羽毛布団の誘店販売と充填販売が始まりました。>

羽毛布団の訪問販売が10年続くと、お客様の要望が、訪問配売では商品の選択余地がないので、お店に来て見て頂いて購入する誘店販売に移行してきました。
誘店販売は昭和59年1月に四国のフランスベッド高松営業所の営業マンが丸亀の販売店にて始めて実施しました。その結果、大きな販売実績があり
すぐに近畿圏から全国的に広がっていきました。この時同時に販売店でチャレンジしたのが羽毛の充填販売でした、
この後、フランスベッドでは羽毛の充填販売と誘店活動は同時に行われるようになりました。

<平成年代の羽毛商品の販売と商品特徴>



この後、ベッドと羽毛の販売に大きな変化が起こりました、それは羽毛の誘店を拡大して、複数の販売店を展示会場に集めてそこで、
ベッド、羽毛布団などを販売する方法が行われました。これを、ユーザー展と言いました。このユーザー展がバブルに向かって拡大する高度経済成長と
相まってフランスベッドの売り上げを550億円から830億円(バブルのピーク時)まで押し上げました。
バブル時代は最高級羽毛である、100万円もする、アイダーダウンが良く売れ、カバーリングではシングルサイズで3万円もする、
スイスコットンのフィスバーの掛け布団カバーがよく売れました。各県で必ず1回づつ(年1回)大型ユーザー展を行い、地域別の展示会を数カ所行っていましたので、
全国では180回近く実施されていました。
しかし、平成2年のバブル崩壊と共に、少しづつ会場がへり、それに伴い、ベッドと羽毛の販売が減少していきました。

<無地羽毛の拡大と2枚重ね羽毛(オールシーズン羽毛)の誕生>

この時代は、柄物から無地のカバーリングへに移行期で、通常の無地に肌布団をセットした、オールシーズン羽毛が新たに登場してきました。
肌掛け羽毛(夏用)+合い掛け布団(春、秋)=冬用 の作りでこれ以降のフランスベッドの羽毛はオールシーズン羽毛が主流となります。


<バブル崩壊後の商品価格帯の変化>

 

バブル崩壊とともにベッドでも羽毛でも、共通の動きがありました、それはバブル崩壊後、しばらくは高級品と廉価品に販売商品が分かれて、
それから高級品と廉価品はすたれて、中級品中心となり、それから中級品と廉価品にシフトすると言うことです。


ベッドと羽毛の日本の庶民の市場への導入を果たしたフランスベッドの戦後から平成までの歩みを記載してみました


平成以降の記録については また、時代を語れる時に記載いたします。



四国のフランスベッドチェーン会の役員さんが、言っておられました「それによって栄えたものは、それによって滅びる。」
家具業界で一世を風靡した企業は、家具業界の衰退で、ベッドの販売が厳しい状況になってきます。

ベッドを買う世代の20代から30代が少なくなり,人口の多い団塊の世代は60歳代になってきている現在、時代はメディカルに変わってきます。

現在のフランスベッドはメディカルを中心に活動されています。
平成11年10月17日 昭和の時代を駆け抜けたフランスベッドの創業者 池田 実 氏 逝去に伴い、この<戦後のベッドの庶民への拡大>は終わります。
現在 フランスベッドは子息 池田 茂 氏によりメディカルに営業の力点をおいて活動されております。



−−−終わり−−−

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